ポケットに名言を/寺山修司

驚くほどポピュラーな本をいまさら読んでみたりするんです。

なんといっても読書一年生みたいなもんですからね。ふふん。

 

自分のHP(パンダホーム)で自分もポエマーしてるし

名言とか格言とか俳句とか短歌とかとても好きです。

詩とか、長いのもいいのですが短いほうがより沁みるのが多いかな。

制限されて初めて生まれる深さってあると思う。

 

有名なこの本を読もうと思ったきっかけは

「さよならだけが人生だ」という言葉が紹介されているということに興味を持ったからです。

 

「さよならだけが人生だ」ってまあ、その通りなんだけど

すごく寂莫とした、乾いたような印象ありませんか。

なんだか飄々とした、すべてを諦めた感というか。

この名言の元ネタと背景を知って私が持ったのは全く違う感想でした。

 

唐代の詩人于武陵(うぶりょう)の五言絶句「勧酒」(かんしゅ)を

井伏鱒二が訳し、それをこの本の中で寺山修司が紹介したわけですが

私の感覚では、元々の詩はそんなに寂莫としたものでもないような気がします。

 

于武陵「勧酒」

勸君金屈卮
滿酌不須辭
花發多風雨
人生足別離

「君に勧(すす)む金屈卮(きんくつし)
満酌(まんしゃく) 辞(じ)するを須(もち)いず
花発(ひら)けば風雨(ふうう)多し
人生 別離足る」

 

井伏鱒二の訳

この盃をうけてくれ

どうぞなみなみつがしておくれ

花に嵐のたとえもあるぞ

さよならだけが人生だ

 

この歌には二通りの解釈があるらしい

「さよならだけが人生なのだから、いまを精一杯生きよう」

という一期一会派と

「さよならだけが人生なのであり、別離こそが人生そのものだ」

という別離派と

 

短い言葉の素晴らしさは想像力が存分に掻き立てられるところだと思う。つまり

「どんな風に感じようが読み手の自由」っていうことだ。

 

私の解釈といえばこんな感じ

唐の時代、仕事で地方から都に集まり共に仕えた男たち

中には気が合って毎日仕事が終わったら一緒に酒飲んで馬鹿言って笑って

家族と別れてちょっぴり寂しいけど、離れて感じる自由があったり

誰かのお父さんや、息子や、旦那じゃなくてもいい解放感もあったり

仕事大変だけど、上司むかつくけど、嫌いな奴もいるけど、

めっちゃ仕事あるやん、終わらへんやん、もうこんな時間やん、あーやっとられへんわ。

やっとられへんから今日も飲もうや。明日もしんどいやろけど。(なぜか関西弁)

 

お前と飲んでたらめっちゃおもろいわー楽しいわー。

明日も飲もうなーおやすみー(っつって隣の部屋に帰って寝る)

みたいな生活をしてたと推測。いつの時代もそんなもんでは。

(すみません。古代中国に全然詳しくないんでありえないこと言ってるに違いない)

 

そんな生活を送っていたのにやがて任期を終え故郷に帰る時がくる

ラインもメールもないから簡単に連絡もできないだろう、会いに行ける手段も自由もないだろう

中国は広いし、人生は今より数段短い。

それぞれ故郷に帰ってしまえば、もう生きているか死んだかもわからない関係になってしまう。

つまり、この酒が「お前と飲める人生で最後の酒」なわけだ。

 

私には、前向きに生きる「一期一会」も寂莫と感じる「別離」もどうでもよくって

「最後とかいやだ、寂しい、明日もお前と飲む、ずっと飲む、これで終わりとか無理、まだ注ぐぞ、まだ終わるもんか」

って駄々こねながら飲んでるだけに感じる。

ただ、どんなにごねても明日は来るし自分たちはそれぞれの故郷に帰る。

そして離れてしまえばもう一生会えないことを知っている。でも考えたくない、そんな感情。

 

まだ飲んでる時点の詩の解釈で、そんなにきれいに結論付けなくていいんじゃないかな、

故郷に帰ればまたそれぞれの人生は忙しくて、あの時飲んで騒いだ同僚たちは思い出になっていく

綺麗に解決して結論付けて心の宝箱に収納してくれるのはいつも「時間」であって「理屈」ではない

 

寺山修司はこの言葉に人生のクライシスを救われたそうだ。

なんで救われるんだろう。よくわかんないな。

 

この本の中に私の心に響いた名言は、他に一つもなかった。

ていうか、よく意味が理解できないものがほとんどだった。

人って不思議だなあ、刺さる場所って全然違うんだもんね。

特に嫌悪感もなく、でも重ならない不思議。

 

寺山修司という狂おしい感性を持った作家の、今度はエッセイ的じゃない本を読んでみようとおもう。

 

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