こんなに面白かった「百人一首」/吉海直人(百人一首①)
古文漢文ブームが来ています。自分の中に。
古文漢文はそんじょそこらのベストセラーのレベルじゃないのよ。
千何百年とか読まれてきた化け物みたいな文章なのよ。
最近ネットで『社会に出たら役に立たない教科』に古文漢文が挙げられていた。
社会に出て役に立つ教科は断トツで【家庭科】だと思うけど、こいつら真面目に家庭科やったとでもいうんでしょうかね。
しょっぱなから話がそれてしまいましたが、そんなことはどうでもいいんです。
「百人一首」は天智天皇の時代から鎌倉時代の初期までに詠まれた和歌の中から藤原定家によって選ばれた100首のアンソロジーです。
恋のうたと秋のうたが多いのが特徴です。
一人一種。100人の才能あふれる歌人たちの選りすぐりの秀歌。選び抜かれた100人は本当に個性豊かで、波乱万丈の人生を送った人ばかりです。それぞれの人生が実にドラマティック。
まず感じたこと。
感受性豊かな天才ばかりなのに、非常に自殺率が低い。
もっとも平安時代の自殺率についてはあまり文献がなく、明らかにされていない。
少なくとも百人一首に選ばれている100人に関して言えば一人だけ、第100首の順徳院のみ。
百人一首を読んで感じることは、平安の人々が全力で生きて、全力で恋をして、全力で感情を放出させている事。
一夫多妻制なので男はどんどん女を口説く。夜這いがスタンダード。
でも恋は冷めちゃうときもある。
男が通ってこなくなったらフェードアウト離婚成立。そしたら女もレッツ再婚。はい!次の恋!
何なら天皇に嫁ぐ前に駆け落ちして失敗しちゃったりしても、その後何もなかったかのように予定通り嫁に行く。
バージニティとか要らない。「簡単に寝ちゃダメ、自分を大切にして」なんてこと言われない。
男も女も極めてケツ軽い。動物の本能に近いところにいる。だって人生は短いもの。
平安時代の平均寿命は30~40歳と言われている。
医学が発達していないので人は簡単に死んでしまう。
はやり病でも食中毒でも事故でもバタバタと死んでゆく。
病に倒れた時に頼れるのは祈祷だけ。仏さまに祈るだけ。
人間はみんな当たり前に死ぬ。死にたくなくても死ぬ。幼くて死ぬ子供も多いし、ピチピチの若者でさえ、はやり病でコロッと死んでいく。
それをみんな知っていた。あんまりにも死は身近で、だから与えられた生を全心全霊で生きていた。
健康診断もないので病に侵されていても、末期になるまで気づかない。
野生の動物がそうであるように、最後の何日かでいきなり悪くなり亡くなっていく。
次々と人が死んでいくのを目の当たりにしていたら、とうとう自分の番がやってきて、そして辞世の句とか詠む。
現代だと、入院して薬漬けになって、いくつもの管を通されていたら辞世の句なんて読むタイミングがつかめない。
退院してリハビリしてたら元気になっちゃうことも普通にあるしね。
もっとも平安の後、武家政治に入れば、自殺が意義を持つようになり、武士は名誉のために切腹などするようになる。
江戸時代に近松門左衛門によって「心中物」が流行れば、恋は恋する2人が死ぬべき理由になる。
近代文学なんかは、この下らない世の中に惰性で無様に生きていくのならむしろ死ぬのが美しいといった雰囲気さえ感じる。
どんどん生きることにハードルが儲けられていく。
恋ならば気高くロマンチックに一人の人と運命の恋をしなくてはダメ。崇高なる理想を持たないとダメ。親や世間の期待を裏切るのもダメ。
自分が生まれてきたことには意味がある。出会うべき人がある。やるべき仕事がある。守るべきものがある。
ダメ、ダメ、ダメ、べき、べき、べきの制約だらけで息が詰まる。もっと本能のままに生きたい。
そらもう、高潔に生きていくためには死ぬしかない。
現代に生まれてセルフコントロールの呪縛にまみれて生きている私は、やはり高潔な死に一種のロマンを感じることは否めない。
恋にまみれて恥を垂れ流すのは無様だし、ボロボロになりながら生きたくなくても生きていくのは苦痛でしかない時だってある。
それでも、平安の人々が残したうたと、歌人の人生を垣間見ることによって、彼らが全身全霊で恋をして、与えられた限りある人生を全力で生きていて、そのあふれる生命力を感じた時、全力で生きる事こそがとても美しいことだと感じることができる。
でも平安時代の倍以上の寿命を、高いハードルと制約の中で生きなきゃならない現代だって
そりゃあしんどいに決まっているやろっていう結論に行きついて終わっとく。
ああ、今日も暑い一日でしたね。
理由もないのに会社やすんじゃった。暑いし。
本能のままに生きよう。